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Pleasure, Phronesis and Good in Plato's Philebus

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山口大学哲学研究会
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Abstract

快楽は善なのか、それとも思慮のほうが人間にとってよいものなのか。我々の人生にとっては、快楽も思慮も両方あったほうがよい。快楽と思慮との混合した生がよりよい。では、その混合の生をよきものにしているのは快楽なのかそれとも思慮なのか。快楽と思慮の各々を分析して二等賞争いの決着をつけねばならない。第I章、快楽の分類、第II章、思慮の分類、第III章、両者の比較及び判定。 第I章 快楽は一つかそれとも幾つかのものに分けられるのか。快楽を考える時、快楽を与えるものとの関係を無視できない。その対象との関係によって、快楽には真なる快楽と単なる快楽の区別が立てられることになる。思いなしに伴う快は、思いなし自身に真偽の区別が語られるので、それに伴う快にも真偽が語られうる。また、苦痛がなくなることを快と思い違えることもある。かくて、真なる快、偽なる快、苦痛と混じりあった快と、純粋な快など、快楽の間に分類が可能となる。 第II章 思慮についてはそれと同族の知識によって分類が行われる。永遠に変らない神的対象にかかわる知識もあれば、感覚的事物を対象とする知識もある。それらの間には当然、真実さの段階が認められるがしかし、快楽の場合とは異なって、偽なる知識というものはありえない。感覚的事物を対象とする知識も、我々が感覚の世界に生きている以上、必要なものとなる。 第III章 快楽、思慮ともに様々に分類されたが、そのうちのどれを混ぜればよき生が出来るか。両者ともその全部を混合することは危険。ではどれを入れるか。よき生のよさに貢献するものを選ぶのだからというので、善の三つの姿、適度、美、真実性をとり出し、その各々によって快楽と思慮の各分類を吟味する。その結果をもとにして、よき生のよさに貢献するものをランク付けすると、快楽のほんの一部のみがようやく第五位にひっかかる程度である。快楽と思慮がその位を争った善とは何か。この対話篇で語られる限りでは、感覚の世界、実在の世界を秩序づけ、それらをしてよきものたらしめるもの、すなわち原因であり、逆に、我々の生はそのような生を可能な限り写しとっていく限りにおいてよきものとなるのであり、知性と思慮はそのことを行うことを本来の使命とする。

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